人生の最期を迎えるときの医療(ターミナルケア)についてお話します。⑤死を受け入れるということ
先日、コロナワクチンを接種に来られた方が
ブログを読んでくださっていると教えて下さいました。
しっかり内容も把握されており、もしバナゲームも持っているとのことでした。
私の拙い文章を楽しみにしてくださっているとのことで
すごく嬉しかったです。
あまりニーズがないのかなと思っておりましたが(特にこのターミナルケアシリーズは書いててもちょっと重たいです。)
一人でも読者様がおられるのなら
その方のためにだけでも意味があると思いますので
筆は遅いですが
責任を持ってしっかり進めさせていただきますね。
それでは
『人生の最期を迎えるときの医療(ターミナルケア)についてお話します。』シリーズ⑤です。
今回は「死を受け入れるということ」というお話に入っていこうと思います。
もしこの内容が、『怖い』『刺激が強すぎる』という場合は
無理して読まないでも大丈夫ですからね。
ご自分のペースやタイミングに合わせて
読みたいときに読み進めてくださればと思います。
このシリーズのブログ
① 導入編→こちら
② 最期のときの3つのパターン→こちら
③ 全人的苦痛という考え方とは→こちら
④ そもそも緩和医療とは?→こちら
自分の「死」家族の「死」を想像したことは有るでしょうか?
自分の死が避けられないと宣告された場合
皆さんは、自分がどういう反応をするか想像がつくでしょうか?
私も、自分の死をリアルに感じた経験はなく
想像するしかないのですが
冷静なんでしょうか?
ちょっとわからない自分がいます。
というのも、先日私の大好きな祖母が天に召されました。
私は、こういう仕事をしているので
お看取りの機会も多く
「免疫」は有る方だと思いました。
どうなっていくのかは、分かっていたし
むしろその過程を、親族ににずっと説明をしておりました。
でも、実際は、、、
正直に申しますと、「すごくすごく悲しかった」です。
自分でもびっくりするぐらい。
いつものよく知る“おばあちゃん”ではない姿は辛かったです。
葬儀などが終わって
家に一人になった時に思い切り泣きました。
家族や親族の前では「医師として、動揺してはいけない」という気持ちがあったのかもしれません。
きっと理屈ではないのですね。
ご本人や家族という立場では、それでいいのだと思います。
その時の感情に任せても
いいのかもしれません。
キューブラー・ロスさんの指摘する「死の受容」のプロセス
キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間・死とその過程について」
終末期医療の発展にとても貢献した
キューブラー・ロスさんは、最終的に何らかの形で、本人は(家族も)死を受け入れて(受容して)亡くなることが多いとしました。
そして「受容」に至るステップが大切であることを説きました。
「死の受容の5段階モデル」と呼ばれ、死に対する防衛反応の一つとして捉えられ
終末期医療(ターミナルケア)やグリーフケアを発展させるきっかけになったとされています。
ひとつづつ見ていきます。
- 否認・・・死を運命として受け入れられず、事実(検査結果など)を疑います。「そんなはずはない!!」
- 怒り・・・「どうして自分が!!」と怒りを覚え、周囲にぶつける事もあります。
- 取引・・・死の恐怖から逃れようとして、何かにすがろうとする事もあるでしょう。(宗教、補完代替治療、寄付など)タバコをやめますから・・・」など。
- 抑うつ・・・死は避けられないことを悟りなにも手につかなくなる時期もあると思います。
- 受容・・・死を避けられない運命として受け入れることができるようになります。
必ずしもこの順でおきるわけではなく
最初から受け入れる人もいるでしょうし
受け入れることはないまま亡くなる人もいれば
受け入れる必要があるのかという議論もあります。
いろいろな意見はあると思いますが
医療者は、このステップによって
患者さんや家族が苦しんでいるなら
言語的に、または言葉にならなくても(非言語的)
そのまま受け止め必要な時には医学的な介入をするよう教えられております。
私個人としても
やはり感情はありのまま出してよい
と思っております。
前回の
③ 全人的苦痛という考え方とは→こちら
でもお話しましたが
苦痛は、何も身体的なものだけではありません。
いろいろなことが複合的に混ざり合って「苦しい」のだと思います。
医療者と患者さん、家族は
ある種の「同士」です。
思っていること、感じていること是非、何でもお話してほしいなあと思います。
死の前で、医師の力は、非常に微力だと感じる事もあります。
ただ、医師は一人ではありません。
看護師さん、リハビリの先生、薬剤師さん、ケアマネさん、ヘルパーさん、法律の専門家、宗教家・・・・
その人の現在抱えている問題に対してすべての職種で知恵や工夫やアイデアを持ち寄って
全力で取り組む事ができます。
最終的には、「死」は避けられないものかもしれません。
でもそこには、確かに、ご本人とご家族を中心として
紡いだ「なにか」があるように思います。
その時を一緒に過ごした確かなものがあるように思います。
その物語は、本当にお一人お一人違っていて
やっぱりお産と似ているなあと感じます。
長くなってきましたのでこのへんで。
あん奈